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鎌倉時代以降、秋田に転封されるまでの佐竹氏400年の歴史についてはこちらの動画で紹介しています!ruclips.net/video/6TFfIlJzfK4/видео.html
幼い時のピアノの先生が佐竹先生というおそろしく上品なおばあさまでした。家紋入りの長持が客間にあったのを覚えています。母曰く、佐竹様の御家老のお家柄らしかったそうです。
佐竹の子孫です。大人になるまで全く歴史に興味がなく、こんなに詳しく説明して頂き勉強したくなりました。動画を作成して頂きありがとうございます。
私の祖母の実家も扇に日の丸の家紋で先祖代々の石碑があります。佐竹の血を私も受け継いでいる模様です(笑)
同じ一族です、
同じ一族です
小生は秋田市生まれの秋田市育ち。小学生の頃、件の千秋公園で夏休みはほぼ毎日昆虫を探して走り回っていた日々を懐かしく思い出しました。佐竹氏については、関ヶ原の戦いで日和見を決め込んだ事が家康の怒りを買い水戸から秋田に転封になったこと以外は何の知識もなかったので、この動画は実に勉強になりました。佐竹氏一族には中々優れた藩主達がいたことを知り、現在関西で暮らす秋田県民の一人として誇らしさを覚えた次第です。良くこんなマイナーな歴史を発掘、アップして下さいました。心から有り難うございました。また何度も繰り返し視聴したいと思っております。感謝🙇
秋田生まれの方から嬉しいコメントいただき感謝です。佐竹義和が江戸中期の名君として有名ですが、秋田蘭画など、文化面でも活躍した大名家は全国探してもそうそうおらず、もっと注目されてもいいのにと思っている次第です。
常陸の片隅に住む者としては源義家に協力して以来、常陸の中で時代の荒波を超えて行った歴史を見て頂けると嬉しいです。
@@KAJIYA--mondo39 鎌倉時代以降、転封されるまでの佐竹氏の歴史についてはこちらの動画で紹介しています!ruclips.net/video/6TFfIlJzfK4/видео.html
恥ずかしながら、あまりにも知識不足で、今回改めて勉強させていただきました。本当にありがとうございました。
2018年に平泉、九戸城、杣温泉、久保田城、角館、横手、羽黒山、磐梯山と巡った旅をしました。久保田城、当時は外国人も多く、櫓近くの水飲み場でドイツ人の方が操作を誤って顔面に水しぶき、大笑いしてるのを見て私も思わず笑ってしまい、片言英語で会話した記憶があります。久保田城が秋田駅前からほど近いところにあることもその時初めて知りました。いい旅でした、あの時に戻りたいですね。。
佐竹家の秋田移封は、領地の大幅減少もあって譜代93騎などは連れていったが、下級家臣や地侍(武器や鎧を持ってはいるがふだんは田畑で農作業している豪農)は連れていかず、解雇して帰農させる事例が多発。うちの先祖も同じ。
うちも置いて行かれた一族だわ。木簡が残ってる。ちなみに直接ではなく多賀谷の家臣らしい。
佐竹氏は清和源氏の流れを組む一族だけど、鬼義重の4、5代前に上杉氏から養子を迎えており、血脈的には、源氏⇒藤原氏に変わっている。この養子を迎えるにあたり、源氏の血筋である一族から養子を求めるべきとして、分家との間で紛争が起きている。
山入一族との内乱ですね室町幕府から分家に所領が与えられて対立して行き、中央の主導権争いにもそれぞれ反対側についた、内紛が収束したのが戦国時代に入ってからでした。一世代早くまとまっていたら利根川まで佐竹領に成って居たかも知れませんね?
大変わかりやすい動画でした。ありがとうございます☺️
佐竹知事がじゃこ天事件でやらかして秋田県民がじゃこ天買いまくって、うちのバカ殿がゴメンナサイした話好き
藩校の明徳館では基本は儒教を教えていたのだが、その内容は他の藩とは違い徹底的に論議を中心とした論議力・コミュ力の育成に特徴があった。その中で頭角を表した人物を地方の要職に着かせ成果をのこしたら中央に引き抜いた。彼らは改革派官僚とも呼ばれたが、藩の重臣とも同じ改革派官僚との論争も厭わず論議を行い、藩の評定では論理がある方の意見が実際に通った。こうした人材養成は天保の飢饉の時にも役立った。多額の借財があるにも関わらず、大阪の商人との個人的付き合いを結んでいた改革派官僚は貴方のお願いならと、更に多額の借財をすることができ、多くの米穀を秋田に輸送し危機を救った。
秋田県民なので、尊敬というより親しみがある。
関ケ原の戦いの前あたりから、そして江戸幕府から遠く離れた出羽の国 久保田藩がつくる時、陰で活躍していたのはその頃の近習の1人、渋江内膳政光公(後の筆頭家老)である。ボウっとした顔なのに頭は凄く切れる人だったと聞いています。内膳公は先見の明があり、関ケ原は徳川が勝つと見込んでいた。もし佐竹が東軍に着いた場合、戦後は必ず理由をつけて佐竹は徳川(江戸幕府)に潰されると読んでいた。何しろただでも親戚スジも併せると80万石、さらに加増もあった場合、そんな危険極まる大名を家康は江戸の側に置くわけがない。必ず潰されると読んでいた。だから義宣にわざと西軍に着くよう話し、代わりに兵は出さないと家康と密約した。そしてまんまと江戸から遠く離れた出羽の国に新たに藩をつくった。現在の秋田市をつくったのも、その内膳公である。帳簿上20万石だったが、新田開発を奨励して実質30万石近くあったようだ。
うちは佐竹氏配下、真壁氏の旗本でしたが、秋田への大減封によって武士の道を捨て、現在の桜川市で農民として大地主となりました。ご先祖様が秋田への転封に同道していればまた違う歴史があったかと思うと歴史の妙を感じますが、ただ一つ言えるのは武士の道を捨て、戦いとは違う平和な道を歩めた事は子孫としては良かったのかなぁと思います。
佐竹さん秋田さ来てくれてありがとな
龍角散のど飴を舐めながら、動画見てたら龍角散って出てきて、ビックリ。家族皆、龍角散や龍角散のど飴のお世話になってます。それに、我が家は、父の代から秋田犬❤ 私も、多い時で、6頭飼ってましたが、秋田犬の歴史を勉強して居る時、闘犬大好きの佐竹藩の名前が幾度となく出てきてましたが、佐竹藩としての歴史は始めて知りました。廃藩置県前の大小各藩の歴史って、今尚同じ県なのに、廃藩置県前の関係が未だに残って居たりして、廃藩置県以前の各藩の歴史に興味があります。昭和の時代までは、同じ県なのに、何々藩の者とは縁組しないみたいな地域もあったと聞いた事があります。
佐竹義宣の弟である蘆名義広は摺上原の戦いで大敗した後実家である常陸の佐竹氏のもとに逃れました。関ヶ原の敗戦処理で佐竹氏が秋田に転封になると義広は兄に従い秋田に移転しました。秋田では角館一万五千石を与えられ現在も残る小京都と言われる町並みを築き上げました。義広は57歳で没しますが、嫡男の蘆名盛泰は父親に先立って病死し、義広の死から4ヶ月後に誕生した盛俊も21歳の若さで病死。盛俊の子の千鶴丸が4歳で転落死したため蘆名氏は滅亡しました。
そして、仙台藩士になっていた蘆名分家の針生家の者が蘆名を称した……って事ですかね?(聞いた話ですが)
殿さまが代々イケメンで有名。
県民です。動画で秋田の歴史、佐竹殿様の歴史が分かり大変良かったです。佐竹氏は歴史ある名門だったんですね。今の知事は末裔ですね。一部では殿のばれてますw
現当主は、養子にづぐ養子で和井内家の血筋で、佐竹氏の末裔ですらありません。
雪の峠・剣の舞って漫画が凄い印象に残ってますね。主人が渋江って人で、国替えしてからの久保田城誕生のいきさつが描かれてた。
渋江政光ですね。新参ながら家中の反対を押し切って藩政改革を進め、最期は大坂の陣で戦死していましたね。
水戸から秋田へ長らく暮らした場所からの移住…。どんな思いで水戸を去ったのでしょうね…。
平安時代から常陸にいましたからね…当時の大名の中でもトップクラスの長さだったので、悔しい思いもあったでしょう。
我が家も、佐竹氏に従い秋田の地に移り住みました。アラレの降る頃だ、と伝わってます。現代で言えば、満洲や樺太に行け!みたいな感じでしようか。
甲斐武田家が滅んで源氏直系の大名の延命との思いも有ったかな?と想像します。戦国大名として勢力を得るまでも数々の修羅場をくぐっております。秋田移封後の事は知らなかったですが、「源氏の血筋を残して置きたい」との天の采配の様な物を感じる足跡を辿ってますね。太田の地より
佐竹家紹介ありがとうございます! 義重公は尊敬する武将ですので秋田県民として誇りに思いますm(__)m
秋田市は佐竹家のおかげで饑饉が起きなかったと言われているよ。尾去沢鉱山も平賀源内が見つけたと言われている。
尾去沢鉱山は江戸 時代は南部です。
ちなみに徳川家の信任を得ながらその反面、亀田藩岩城氏に真田の姫・隆清院(祖父豊臣秀次・父真田信繁)が嫁いでいたりする
常陸から美人皆つれてったから秋田に美人が多いって逸話好き。
逆に茨城には美人が消えたって言うね。
@@chibi-777 なるほど。少ない気がしてきた。
聞いた事ある。地方に追いやられた腹いせに、女好きの藩主が美人さんをたくさん連れてったとかって。
だから茨城(特に水戸)にはブサイクだらけになったって話も笑える。
ただ今の容姿とは別の価値観かもしれないから茨城にも美人はいるでしょ磯山さやかとかめちゃくちゃ好きだけど自分は
当家も戦国期に常陸佐竹家から嫁に着ており、家としては別の家系ですが子孫です~。
佐竹は何人も養子を貰っている、名字帯刀を許されてからは佐竹を名乗る者も出て来た為に同じ一族とは言えない人が数多くいる。本家でもそうだけれど、一般的には現在も佐竹本家と佐竹南家、佐竹北家、佐竹西家とある。南家では、佐竹会を設けており、毎年一族が集まっています。うちも佐竹家ですが、羽州街道を守る役割をしていたが農地開放で栃は激減してしまった。
秋田にも佐竹様にもなんのゆかりもないジジイですが、ようつべのおすすめでこの動画拝見し、素晴らしい歴史解説!と感嘆しながら楽しませていただきました!ありがとうございました。
東京御徒町の佐竹商店街は秋田から来た人が始めたらしい、商店街アーケート゚に佐竹氏の家紋日の丸扇子(源平合戦、那須与一扇の的で有名)が上がってる、竿燈祭りの提灯が置いて在る時が在る。
日の丸なら違います、本物は月の丸
浅草の佐竹商店街の由来はもともと秋田藩の江戸屋敷跡で佐竹っ原と呼ばれたところに、見世物小屋が並んでから名づけられたと聞きましたけど?
秋田美人を見るに、 県南色白面長系 沿岸北欧系白白小顔系 が目につきます。いわゆる、ハアフの流れを感じます。🙋💁
幕末、仙台藩の使者を惨殺したのは当時の習わしとしても有り得ない行為でした。
我が一族には殿と呼ばれている従弟がいます。冠婚葬祭などで一族が集まると、殿が言います。「江戸時代は仕方なく佐竹に仕えたが真の主君は安倍氏である。」それぞれの家には口伝があり、絶対に他家に知られてはならないというのがあります。一堂に集まると何を伝えられているか探り合いします。これは楽しいです。
鎌倉殿の13人 佐竹氏出てました。
わかりやすく私の先祖も佐竹に絡んでいたのかなー?と浪漫を感じさせる面白い動画でした(*´ω`*)龍角散の件もそういうことか!も知ることができました。
出羽国一国あたえられていたら、山形の最上義光や米澤の上杉景勝は代わりに何処へ転封されたのだろう?
我が祖先は白河結城氏の重臣で主家降伏後に佐竹家臣となり常陸から秋田転封に付き従い明治を迎えました。先祖の中には、大坂冬の陣で佐竹義宜公の馬廻り衆として初陣を迎え迫り来る敵から義宜公を護った者がおり、その功績で頂戴した錦の袋(中身は見てはいけないという家訓なので誰も見た事が無い)や上杉家と弁当を食べた際にその話を聞いた上杉景勝公から頂戴した上杉家の家紋が入っている漆のお重箱が家宝としてあります。また、江戸期には江戸詰め家老になり忠臣蔵の吉良邸討ち入りの日には吉良邸の隣屋敷で徹夜の歌会に出席しており、その時の体験が書かれた文書とか先祖が書いた物が無数にあります。戊辰戦争の際は雄勝峠防衛の任に付き、その時に使われた鎧兜や刀もあります。雄勝峠に近い昔銀山で賑わった地域に屋敷がありましたが、祖父が亡くなると売り払ってしまい今は秋田に行く機会はありません。秋田入植に際して地元豪族から抵抗を受けて戦死した親族の墓がその地域の山の麓にあります。そういえば先祖が書いた絵がやけに多いのは江戸期の佐竹家の芸術推奨のせいなのですね。この動画を見て、佐竹家の歴史と我が祖先の歴史に思いを致しました。ちなみに誰に教わるでもなく私も伊達は嫌いですw 遺伝子に組み込まれているのでしょうね。
水戸市に住んでいます。大変勉強になりました。母親は秋田鹿角出身で、小生も終戦間際、鹿角で生まれました。佐竹氏の初期の成り立ちも教えて下さい。確か水戸の東に同じ源氏のひたちなか市(勝田)の武田氏と争い勝利。武田氏は西に逃れ、甲斐武田氏に成ったはず?この辺が知りたいです。水戸光圀は隠居の地に、佐竹氏の本拠地である現常陸大田市に構えました。佐竹の岡の西に西山別荘
東に水戸家歴代の墓、臥龍山(丘ですけど)。佐竹の土着の郷士や旧領民を意識したと聞いています。余談ですが、儒教式の陵墓です。頂上から初代頼房、光圀、綱條へ順番に下がる。興味ある方どうぞ。又、朱子の子孫である朱 瞬水の墓もあります。
大変失礼な言葉を使い申し訳有りません。訂正させて頂きます。陵墓→儒教式墓白木の柵(檜)に大小の社(殿様と正室)、亀甲墓(大小二つ)
@@勲高橋-n5r 今は、一般は開放していませんね。確か震災以前に一般開放はされなくなったのかな?!何年か前、復旧予算の足しにと、臨時で一般開放したようですが、足しになるような金額があつまったかはわかりません。復旧費用は、3億からかかるとか。
逃れたのではなく、追放ですね。いわゆる、所払い です。詳しくは、ひたちなか市の武田館にいけば、書いてあります。市毛十文字から湊方向に行けば、右側にあります。
佐竹と武田、従兄弟?が争って所払いですか~武田氏の移住の経緯が不明でしたので……♪武田館に行って見ます。✌️
16:38 亀田藩は久保田藩に合流して新政府側で戦ったんじゃないの? 当時の県北は盛岡藩の領地もあって そこは旧幕府側だったので県民歌は浸透してないって聞いたことあるけど
この「律儀すぎても困る」の真意は何だったんだろう?
いわゆる"バカ正直"で、本当の事であれば、いらん事まで喋ってしまう性格なんじゃないですかね。
名家中の名家だからな。
現在中国人が大好きな龍角散は佐竹の家臣の薬剤師が殿のため作った。みのもんたのご先祖様も家臣。
件の白石市長の人間性問題が有るだろう いくら 歴史的 な経緯があるとはいえ 公式で発言してもいいかどうかの 分別がないのかな
秋田の地方紙の秋田魁新報の記者が会津で取材しようとすると、タクシードライバーから乗車拒否されたとか。
佐竹氏は、徳川幕府に組する必要はありません!
佐竹さんが優秀で県民と県の事をよく考えるので知事に選ばれたのなら良いのだけど、元藩主様だからとかの理由で当選したのなら問題。日本人は大体そんな理由で指導者を選びがちだからね。
東京御徒町に佐竹商店街が在るアーケード入り口に佐竹家家紋の扇が付いてる
北朝鮮のミサイル発射で、秋田県佐竹知事のイージスアショア配備計画が復活話題。
はじめまして札幌のおばあちゃんです。私の父は秋田角館から札幌に出て、あの世にいます現在、血をひく私達は、歴史🎉のみが残ります歴史はもっと古い小野崎家が関係する、長い記憶ですね
小野崎氏は常陸時代から佐竹氏と深い関係にあった一族ですね。佐竹氏に従って秋田に行った一族でしょうか?
秋田を米どころにした佐竹氏。
佐竹様には窮地を救っていただきました。信州武士の一員として京に上りましたが鎌倉殿に追われかくまって下さったのが同流源氏の佐竹様です。以来16世紀の終わりまで当主は重の字を使わせて頂きました。当家の古い恩人であります
義仲公の家来ですか?
@@pontarou01 家来ではありません 賛同した中小領主でした。後の源氏越後五流(現在では忘れられた表現)の切れ端
常陸の片隅からですが武田氏が常陸から甲斐に移住した経緯をご存知でしたらご教示頂けないでしょうか?佐竹氏と共に武田郷に草刈り地を与えられて土着した様なのですが、常陸の歴史に名も残さずに何故、移住してしまったのか?経緯不明なのです。【武田郷】が土地的に現在の水戸の川を挟んだ対岸であり、有力氏族の近くで住み難かったのかな?とも思っております。甲斐〜信州に招き入れた氏族が有ったと言う事なのでしょうか?
@@KAJIYA--mondo39 当家の場合ですが鎌倉に詫びを入れ信州の旧領を安堵され戻れた次第です。あいにく武田様には詳しくないので何とも申せませんが頼朝公の牛若丸征伐、幕府開府と時期的に一致するならおなじような流れかもしれません。信州甲州は生産性の乏しい土地で逆賊を流す意味が有ったのかも
@@cma46210 さま佐竹氏も同じ様な状況でした。鎌倉挙兵時、常陸国には藤原系、平良房系の氏族が根を張っており姻戚関係を結びながら保って居る状態の中で平家勢力の中央を突破して鎌倉へ参じる事はできませんでした。富士川の戦い後の佐竹攻めで敗れて北茨城の山に潜んで暮らし、のちに奥州藤原征伐途上の宇都宮で参陣し赦されて、白旗に扇の印を賜った。以来、月扇?(日扇?)が佐竹氏の印と成りました。地方の豪族にとっては平家の勢力が浸透してきてすぐに崩れるとは思えなかったのでしょう。武田氏は源義家の弟、源義光の頃に兄弟?(従兄弟?)が争って所払いに成って常陸を去った様です。木曽義仲公の先祖を頼ったのかも知れませんね?
佐竹家、独眼竜の漫画にも出たしドラマにも出てたな。
最近の戦国物ではなかなか出番がないのが寂しいですね。
母方の先祖が、茨城に残った佐竹氏の家臣、仁平家です。
仁平家は秋田に従った家系、水戸に残った家系に分裂したようですね。
月居城の関係者でしょうか?にひら、にだいら、二瓶まで色々な方がいらっしゃいね。
度々失言してますけど御人柄は良いそうですよ〜佐竹知事さんは
失言は多いけどしっかり筋を通す方ですよね。
どっかの 格闘家 も 佐竹一族
常陸太田に佐竹寺、佐竹高校があります。
佐竹さんと井伊さんは有名やね、徳川さんは落選したけど
新政府側に付いたのが本当に惜しい。
戦国時代に上杉から養子をむかえたため、戦国以降の佐竹は新羅三郎源義光の血は引いていない。
そうですね。昔は家を遺す為に、別人が家名だけを継ぐ事は良くあった話、血筋は途絶えています。
佐竹義人のことなら妻を佐竹嫡流から貰ってるから、女系で義光の血統は継いでるんじゃ?
佐竹義暁は相馬から入った婿養子。その妻は佐竹の出だが2人に子供がなかったため、新羅三郎義光の血は佐竹においては完全に絶えている。
@@吉-w8g 当時の相馬氏は数代前に佐竹氏からの養子を迎えていたから、側室から生まれた跡継ぎも父方から義光の血を引いていて昭和に迎えた養子も佐竹義重の女系子孫になるから今の佐竹宗家は義光の血筋と言えると思う
元々の佐竹氏の血は途絶えているのですね。昔は家を継ぐとか、別人が遺す意味で家名だけを継いでいました。
佐竹大好きで、信長の野望はいつも佐竹。
戦闘では、義昭、義重、義宣の当主三代、一族の義久、内政では岡本一族、和田、人材揃ってるよな。ただ、北条と伊達が育つと、なかなかスリルある展開になりがちだ
何故、秋田藩ではなく、久保田藩なのでしょうか?いやうちの親戚で久保田さんという家があるので、何か関係があるのかなぁと思ったからです。
秋田は一帯の地名として古来からあり、久保田は城のあった周辺の地名だったようです。明治維新のときに、秋田藩という地名の方がふさわしいとして改称し、現在の秋田県につながっているようですね。
@@rekishock 様、返信有難うございました🙇いつも大変わかりやすくて興味をそそられる歴史の話題を提供して頂いて本当に有難うございます🙇以前、龍角散のど飴のコマーシャルが流れて、秋田県知事さんが出られて、佐竹さんという方でしたから、ひょっとしたら秋田藩佐竹氏の血筋の方かなぁと思っておりましたが、やはりそうでしたね。
秋田城というのは蝦夷征伐のため平安時代からあってそれと区別するためかもね。あと佐竹が出羽に転封する前は秋田市土崎港に城があって秋田(安東)氏が支配してた。久保田は佐竹の作った城のある場所名です。
会津藩主の子孫が福島県知事になっったときは「会津藩主の成れの果てが県知事になった。」って揶揄してる人が居ました。
12:04 「人取橋の合戦」以来、伊達家と佐竹家は和解した形跡がない。奥羽越列藩同盟の幹事藩(仙台藩、米沢藩、庄内藩など)は傲慢で、新発田藩などはそれを嫌って、のちに新政府軍に参加しました。矢島藩、津軽藩も寝返ったと言う。新政府は横暴というのは言いがかりです。
秋田のゲホどもは佐竹公に絶対忠誠。自衛隊の秋田出身同期たち、何よりも佐竹公大事、命も厭わない。薩摩に似ていますねー。これは未来永劫続きます。
初代義宣は、太田城33館城主謀殺事件正室血に染まった太田城に置き去りの非業、本人は異常なほどの用心深さで藩の重鎮でも素顔を見たものはあまりいないとされている。江戸屋敷には門松代わりに屈強の武士を門前に並べ佐竹の人飾りと川柳にも読まれている。佐竹で評価できるのは二代目義隆でその正室光聚院は良妻賢母として有名・あとは佐竹義和位で、とても誇るべき藩主では無かった。百姓への取り立ても厳しく「苛斂誅求」と他県藩から称された。「三百藩主人名事典」「江戸10万日全記録」にも佐竹藩百姓の苦境が記載されている。美化するのは誤り!
江戸時代の年貢取り立ての件は大半の藩にも当てはまりますけどね。
津軽家も新政府側なんだけど!?
おらほのとのさまだな。3分の2も燃えたとは知らなかった。
奥羽越列藩同盟の離脱は時勢を理解していた故の判断ではなく特に庄内藩‐南部藩との過去の度重なる確執により当初から「気分的」に嫌だったのだろう。政治力も武力も脆弱な藩が官軍を気取った顛末は動画の通り情けないものであり藩主以外は恩恵に預かる事はなかった❗
動画にある通り、勤王派が藩内にものすごく多かったのにも関わらず、東北諸藩を説得しようとする奥羽鎮撫隊の全部隊が偶然秋田藩に集まるものだから、仕方ないかと。しかも、何事にも荒っぽい大山綱良が若手を中心に煽った。戦闘の緒戦は大山綱良や桂太郎が活躍して勝ったのだけど、その後が撤退しまくり。
東北は稲作に向いておらず、頻繁に餓死者を出していた貧しい地域。秋田は一揆が頻発した。ちなみに秋田の語源は「悪田」 (´・ω・`)
佐竹家が名門なのはわかりました。長年にわたり秋田を治めていたこと勉強になりました。ただ、現代においても佐竹家が行政の長になっているということに、少し違和感を感じました。佐竹さんが優秀で素晴らしい人なのか? ほかに優秀で素晴らしい人物がいないのか? それとも他に理由があるのか? 佐竹支配からの離脱とか、脱佐竹のムーブメントっていうのも無いんですかね。ちょっと不思議に感じました。
まあ、過去には彦根市の市長として井伊家の人が何十年も市長やってたりするし、わりと『おらが殿様』の精神はまだ残ってるってことさ。それが良いか悪いかは定かではない(評価なんて時代によって異なる。今我々の価値観を絶対視して過去を断罪するのはアホらしいのと同じ)
北家は(きたけ)と読みます。
まあ佐竹はほぼ相馬だから
鷹司の娘を娶ったって本当なの?誰を娶ったんだろ
山内上杉氏から養子にはって居るので源氏でなくなって居ますね。
12代当主佐竹義人はたしかに山内上杉氏からの養子ですが、先代当主佐竹義盛の娘、源姫を妻としており、源姫との間に跡継ぎの佐竹義俊をもうけているので、女系ではありますが初代以降の源氏の血筋はつながっています。
男系じゃないと源氏のy染色体を受け継いでいないのでちがいますね。
日本の「家制度」は別姓の他家から養子を迎えたからといってその家の姓が変わるようなことはありませんよ。これは別の動画のコメントでも言ったことですが、『歴名土代』は戦国時代後期の佐竹義重について「源義重」と記し、またこの義重の姉か妹に当たる岩城親隆室は自らを「源氏女」と奥州飯野八幡宛の禁制に記しています。つまり佐竹氏は対外的にも内々でも自らを「源氏」として認識していたということになります。もちろん織田氏や徳川氏などのように事情によっては氏姓を変えることはありますが、佐竹氏はそのようなことはしていません。
天皇は男系の血筋ですが、天皇の家来の源氏、平氏、藤原氏は家としの存続なので別に男系でないとダメというきまりはないです。
東照宮の燈籠の奉納名に藤原朝臣政宗と有って??伊達政宗が?……奥州藤原氏と関係は有ったような??と思いました。源氏姓もそう云う使われ方も有ります。
イージス・アショアを蹴った知事は好かん!
御先祖は佐竹の家来だったそうだけど。
秋田は未だ江戸時代が続いているのか。ヤダヤダ、恐ろし。
佐竹知事は分家な
佐竹一族が現代でも知事をしているのは知っているが、そういう県だからダメなんだよね。別に佐竹氏が悪いわけではなく、県民性が悪い。絶対、秋田には住まない。
知事は柔軟な思考ができる人だけど、県民が排他的です。(地元民
うん。ここの出身だ。佐竹知事は、酷いことを言われたよ。「肉が固い(比内地鶏)」聞いた時傷付いた。そいういうなら柔らかい地鶏開発して欲しい。もし佐竹知事のご先祖さま義宣に大河ドラマ出たら観光アップして欲しい
じゃこ天美味いよ
石岡の 出城が近くに荒れた 城跡が有りますが 佐竹に潰されて のちに家康の水戸藩に組み入れられ 水戸様の 領地に成り 黄門様の俵に 腰を掛けて ばあさんに怒られた 話しは 子供時代に 気生かされてますよ。
鎌倉時代以降、秋田に転封されるまでの佐竹氏400年の歴史についてはこちらの動画で紹介しています!
ruclips.net/video/6TFfIlJzfK4/видео.html
幼い時のピアノの先生が佐竹先生というおそろしく上品なおばあさまでした。家紋入りの長持が客間にあったのを覚えています。母曰く、佐竹様の御家老のお家柄らしかったそうです。
佐竹の子孫です。大人になるまで全く歴史に興味がなく、こんなに詳しく説明して頂き勉強したくなりました。動画を作成して頂きありがとうございます。
私の祖母の実家も扇に日の丸の家紋で
先祖代々の石碑があります。佐竹の血を私も受け継いでいる模様です(笑)
同じ一族です、
同じ一族です
小生は秋田市生まれの秋田市育ち。小学生の頃、件の千秋公園で夏休みはほぼ毎日昆虫を探して走り回っていた日々を懐かしく思い出しました。佐竹氏については、関ヶ原の戦いで日和見を決め込んだ事が家康の怒りを買い水戸から秋田に転封になったこと以外は何の知識もなかったので、この動画は実に勉強になりました。佐竹氏一族には中々優れた藩主達がいたことを知り、現在関西で暮らす秋田県民の一人として誇らしさを覚えた次第です。良くこんなマイナーな歴史を発掘、アップして下さいました。心から有り難うございました。また何度も繰り返し視聴したいと思っております。感謝🙇
秋田生まれの方から嬉しいコメントいただき感謝です。
佐竹義和が江戸中期の名君として有名ですが、秋田蘭画など、文化面でも活躍した大名家は全国探してもそうそうおらず、もっと注目されてもいいのにと思っている次第です。
常陸の片隅に住む者としては
源義家に協力して以来、常陸の中で時代の荒波を超えて行った歴史を見て頂けると嬉しいです。
@@KAJIYA--mondo39 鎌倉時代以降、転封されるまでの佐竹氏の歴史についてはこちらの動画で紹介しています!
ruclips.net/video/6TFfIlJzfK4/видео.html
恥ずかしながら、あまりにも知識不足で、今回改めて勉強させていただきました。本当にありがとうございました。
2018年に平泉、九戸城、杣温泉、久保田城、角館、横手、羽黒山、磐梯山と巡った旅をしました。久保田城、当時は外国人も多く、櫓近くの水飲み場でドイツ人の方が操作を誤って顔面に水しぶき、大笑いしてるのを見て私も思わず笑ってしまい、片言英語で会話した記憶があります。久保田城が秋田駅前からほど近いところにあることもその時初めて知りました。いい旅でした、あの時に戻りたいですね。。
佐竹家の秋田移封は、領地の大幅減少もあって譜代93騎などは連れていったが、下級家臣や地侍(武器や鎧を持ってはいるがふだんは田畑で農作業している豪農)は連れていかず、解雇して帰農させる事例が多発。うちの先祖も同じ。
うちも置いて行かれた一族だわ。木簡が残ってる。ちなみに直接ではなく多賀谷の家臣らしい。
佐竹氏は清和源氏の流れを組む一族だけど、鬼義重の4、5代前に上杉氏から養子を迎えており、血脈的には、源氏⇒藤原氏に変わっている。この養子を迎えるにあたり、源氏の血筋である一族から養子を求めるべきとして、分家との間で紛争が起きている。
山入一族との内乱ですね
室町幕府から分家に所領が与えられて対立して行き、中央の主導権争いにもそれぞれ反対側についた、内紛が収束したのが戦国時代に入ってからでした。
一世代早くまとまっていたら利根川まで佐竹領に成って居たかも知れませんね?
大変わかりやすい動画でした。ありがとうございます☺️
佐竹知事がじゃこ天事件でやらかして秋田県民がじゃこ天買いまくって、うちのバカ殿がゴメンナサイした話好き
藩校の明徳館では基本は儒教を教えていたのだが、その内容は他の藩とは違い徹底的に論議を中心とした論議力・コミュ力の育成に特徴があった。その中で頭角を表した人物を地方の要職に着かせ成果をのこしたら中央に引き抜いた。彼らは改革派官僚とも呼ばれたが、藩の重臣とも同じ改革派官僚との論争も厭わず論議を行い、藩の評定では論理がある方の意見が実際に通った。こうした人材養成は天保の飢饉の時にも役立った。多額の借財があるにも関わらず、大阪の商人との個人的付き合いを結んでいた改革派官僚は貴方のお願いならと、更に多額の借財をすることができ、多くの米穀を秋田に輸送し危機を救った。
秋田県民なので、尊敬というより親しみがある。
関ケ原の戦いの前あたりから、そして江戸幕府から遠く離れた出羽の国 久保田藩がつくる時、陰で活躍していたのはその頃の近習の1人、渋江内膳政光公(後の筆頭家老)である。
ボウっとした顔なのに頭は凄く切れる人だったと聞いています。
内膳公は先見の明があり、関ケ原は徳川が勝つと見込んでいた。もし佐竹が東軍に着いた場合、戦後は必ず理由をつけて佐竹は徳川(江戸幕府)に潰されると読んでいた。何しろただでも親戚スジも併せると80万石、さらに加増もあった場合、そんな危険極まる大名を家康は江戸の側に置くわけがない。必ず潰されると読んでいた。だから義宣にわざと西軍に着くよう話し、代わりに兵は出さないと家康と密約した。そしてまんまと江戸から遠く離れた出羽の国に新たに藩をつくった。現在の秋田市をつくったのも、その内膳公である。帳簿上20万石だったが、新田開発を奨励して実質30万石近くあったようだ。
うちは佐竹氏配下、真壁氏の旗本でしたが、秋田への大減封によって武士の道を捨て、現在の桜川市で農民として大地主となりました。
ご先祖様が秋田への転封に同道していればまた違う歴史があったかと思うと歴史の妙を感じますが、ただ一つ言えるのは武士の道を捨て、戦いとは違う平和な道を歩めた事は子孫としては良かったのかなぁと思います。
佐竹さん秋田さ来てくれてありがとな
龍角散のど飴を舐めながら、動画見てたら龍角散って出てきて、ビックリ。家族皆、龍角散や龍角散のど飴のお世話になってます。それに、我が家は、父の代から秋田犬❤ 私も、多い時で、6頭飼ってましたが、秋田犬の歴史を勉強して居る時、闘犬大好きの佐竹藩の名前が幾度となく出てきてましたが、佐竹藩としての歴史は始めて知りました。廃藩置県前の大小各藩の歴史って、今尚同じ県なのに、廃藩置県前の関係が未だに残って居たりして、廃藩置県以前の各藩の歴史に興味があります。昭和の時代までは、同じ県なのに、何々藩の者とは縁組しないみたいな地域もあったと聞いた事があります。
佐竹義宣の弟である蘆名義広は摺上原の戦いで大敗した後実家である常陸の佐竹氏のもとに逃れました。関ヶ原の敗戦処理で佐竹氏が秋田に転封になると義広は兄に従い秋田に移転しました。秋田では角館一万五千石を与えられ現在も残る小京都と言われる町並みを築き上げました。義広は57歳で没しますが、嫡男の蘆名盛泰は父親に先立って病死し、義広の死から4ヶ月後に誕生した盛俊も21歳の若さで病死。盛俊の子の千鶴丸が4歳で転落死したため蘆名氏は滅亡しました。
そして、仙台藩士になっていた蘆名分家の針生家の者が蘆名を称した……って事ですかね?(聞いた話ですが)
殿さまが代々イケメンで有名。
県民です。動画で秋田の歴史、佐竹殿様の歴史が分かり大変良かったです。佐竹氏は歴史ある名門だったんですね。今の知事は末裔ですね。一部では殿のばれてますw
現当主は、養子にづぐ養子で和井内家の血筋で、佐竹氏の末裔ですらありません。
雪の峠・剣の舞って漫画が凄い印象に残ってますね。
主人が渋江って人で、国替えしてからの久保田城誕生のいきさつが描かれてた。
渋江政光ですね。
新参ながら家中の反対を押し切って藩政改革を進め、最期は大坂の陣で戦死していましたね。
水戸から秋田へ長らく暮らした場所からの移住…。どんな思いで水戸を去ったのでしょうね…。
平安時代から常陸にいましたからね…
当時の大名の中でもトップクラスの長さだったので、悔しい思いもあったでしょう。
我が家も、佐竹氏に従い秋田の地に移り住みました。アラレの降る頃だ、と伝わってます。現代で言えば、満洲や樺太に行け!みたいな感じでしようか。
甲斐武田家が滅んで源氏直系の大名の延命との思いも有ったかな?と想像します。
戦国大名として勢力を得るまでも数々の修羅場をくぐっております。
秋田移封後の事は知らなかったですが、「源氏の血筋を残して置きたい」との天の采配の様な物を感じる足跡を辿ってますね。太田の地より
佐竹家紹介ありがとうございます! 義重公は尊敬する武将ですので秋田県民として誇りに思いますm(__)m
秋田市は佐竹家のおかげで饑饉が起きなかったと言われているよ。尾去沢鉱山も平賀源内が見つけたと言われている。
尾去沢鉱山は江戸 時代は南部です。
ちなみに徳川家の信任を得ながらその反面、亀田藩岩城氏に真田の姫・隆清院(祖父豊臣秀次・父真田信繁)が嫁いでいたりする
常陸から美人皆つれてったから秋田に美人が多いって逸話好き。
逆に茨城には美人が消えたって言うね。
@@chibi-777 なるほど。少ない気がしてきた。
聞いた事ある。地方に追いやられた腹いせに、女好きの藩主が美人さんをたくさん連れてったとかって。
だから茨城(特に水戸)にはブサイクだらけになったって話も笑える。
ただ今の容姿とは別の価値観かもしれないから茨城にも美人はいるでしょ磯山さやかとかめちゃくちゃ好きだけど自分は
当家も戦国期に常陸佐竹家から嫁に着ており、家としては別の家系ですが子孫です~。
佐竹は何人も養子を貰っている、名字帯刀を許されてからは佐竹を名乗る者も出て来た為に同じ一族とは言えない人が数多くいる。
本家でもそうだけれど、一般的には現在も佐竹本家と佐竹南家、佐竹北家、佐竹西家とある。南家では、佐竹会を設けており、毎年一族が集まっています。うちも佐竹家ですが、羽州街道を守る役割をしていたが農地開放で栃は激減してしまった。
秋田にも佐竹様にもなんのゆかりもないジジイですが、
ようつべのおすすめでこの動画拝見し、素晴らしい歴史解説!と感嘆しながら楽しませていただきました!
ありがとうございました。
東京御徒町の佐竹商店街は秋田から来た人が始めたらしい、商店街アーケート゚に佐竹氏の家紋日の丸扇子(源平合戦、那須与一扇の的で有名)が上がってる、竿燈祭りの提灯が置いて在る時が在る。
日の丸なら違います、本物は月の丸
浅草の佐竹商店街の由来はもともと秋田藩の江戸屋敷跡で佐竹っ原と呼ばれたところに、見世物小屋が並んでから名づけられたと聞きましたけど?
秋田美人を見るに、
県南色白面長系
沿岸北欧系白白小顔系
が目につきます。
いわゆる、ハアフの流れを感じます。🙋💁
幕末、仙台藩の使者を惨殺したのは当時の習わしとしても有り得ない行為でした。
我が一族には殿と呼ばれている従弟がいます。
冠婚葬祭などで一族が集まると、殿が言います。
「江戸時代は仕方なく佐竹に仕えたが真の主君は安倍氏である。」
それぞれの家には口伝があり、絶対に他家に知られてはならないというのがあります。
一堂に集まると何を伝えられているか探り合いします。
これは楽しいです。
鎌倉殿の13人 佐竹氏出てました。
わかりやすく私の先祖も佐竹に絡んでいたのかなー?と浪漫を感じさせる面白い動画でした(*´ω`*)
龍角散の件もそういうことか!も知ることができました。
出羽国一国あたえられていたら、山形の最上義光や米澤の上杉景勝は代わりに何処へ転封されたのだろう?
我が祖先は白河結城氏の重臣で主家降伏後に佐竹家臣となり常陸から秋田転封に付き従い明治を迎えました。先祖の中には、大坂冬の陣で佐竹義宜公の馬廻り衆として初陣を迎え迫り来る敵から義宜公を護った者がおり、その功績で頂戴した錦の袋(中身は見てはいけないという家訓なので誰も見た事が無い)や上杉家と弁当を食べた際にその話を聞いた上杉景勝公から頂戴した上杉家の家紋が入っている漆のお重箱が家宝としてあります。また、江戸期には江戸詰め家老になり忠臣蔵の吉良邸討ち入りの日には吉良邸の隣屋敷で徹夜の歌会に出席しており、その時の体験が書かれた文書とか先祖が書いた物が無数にあります。戊辰戦争の際は雄勝峠防衛の任に付き、その時に使われた鎧兜や刀もあります。雄勝峠に近い昔銀山で賑わった地域に屋敷がありましたが、祖父が亡くなると売り払ってしまい今は秋田に行く機会はありません。秋田入植に際して地元豪族から抵抗を受けて戦死した親族の墓がその地域の山の麓にあります。そういえば先祖が書いた絵がやけに多いのは江戸期の佐竹家の芸術推奨のせいなのですね。この動画を見て、佐竹家の歴史と我が祖先の歴史に思いを致しました。ちなみに誰に教わるでもなく私も伊達は嫌いですw 遺伝子に組み込まれているのでしょうね。
水戸市に住んでいます。
大変勉強になりました。
母親は秋田鹿角出身で、
小生も終戦間際、鹿角
で生まれました。
佐竹氏の初期の成り立ちも
教えて下さい。
確か水戸の東に同じ源氏の
ひたちなか市(勝田)の武田
氏と争い勝利。武田氏は
西に逃れ、甲斐武田氏に
成ったはず?
この辺が知りたいです。
水戸光圀は隠居の地に、
佐竹氏の本拠地である
現常陸大田市に構えました。佐竹の岡の西に西山別荘
東に水戸家歴代の墓、
臥龍山(丘ですけど)。
佐竹の土着の郷士や
旧領民を意識したと
聞いています。
余談ですが、儒教式の
陵墓です。頂上から
初代頼房、光圀、綱條へ
順番に下がる。
興味ある方どうぞ。
又、朱子の子孫である
朱 瞬水の墓もあります。
大変失礼な言葉を使い
申し訳有りません。
訂正させて頂きます。
陵墓→儒教式墓
白木の柵(檜)に大小の社
(殿様と正室)、亀甲墓
(大小二つ)
@@勲高橋-n5r 今は、一般は開放していませんね。確か震災以前に一般開放はされなくなったのかな?!何年か前、復旧予算の足しにと、臨時で一般開放したようですが、足しになるような金額があつまったかはわかりません。復旧費用は、3億からかかるとか。
逃れたのではなく、追放ですね。いわゆる、所払い です。詳しくは、ひたちなか市の武田館にいけば、書いてあります。市毛十文字から湊方向に行けば、右側にあります。
佐竹と武田、従兄弟?が争って所払いですか~
武田氏の移住の経緯が不明でしたので……♪
武田館に行って見ます。✌️
16:38 亀田藩は久保田藩に合流して新政府側で戦ったんじゃないの? 当時の県北は盛岡藩の領地もあって そこは旧幕府側だったので県民歌は浸透してないって聞いたことあるけど
この「律儀すぎても困る」の真意は何だったんだろう?
いわゆる"バカ正直"で、本当の事であれば、いらん事まで喋ってしまう性格なんじゃないですかね。
名家中の名家だからな。
現在中国人が大好きな龍角散は佐竹の家臣の薬剤師が殿のため作った。みのもんたのご先祖様も家臣。
件の白石市長の人間性問題が有るだろう いくら 歴史的 な経緯があるとはいえ 公式で発言してもいいかどうかの 分別がないのかな
秋田の地方紙の秋田魁新報の記者が会津で取材しようとすると、タクシードライバーから乗車拒否されたとか。
佐竹氏は、徳川幕府に組する必要はありません!
佐竹さんが優秀で県民と県の事をよく考えるので知事に選ばれたのなら良いのだけど、元藩主様だからとかの理由で当選したのなら問題。
日本人は大体そんな理由で指導者を選びがちだからね。
東京御徒町に佐竹商店街が在るアーケード入り口に佐竹家家紋の扇が付いてる
北朝鮮のミサイル発射で、秋田県佐竹知事のイージスアショア配備計画が復活話題。
はじめまして札幌のおばあちゃんです。私の父は秋田角館から札幌に出て、あの世にいます現在、血をひく私達は、歴史🎉のみが残ります歴史はもっと古い小野崎家が関係する、長い記憶ですね
小野崎氏は常陸時代から佐竹氏と深い関係にあった一族ですね。
佐竹氏に従って秋田に行った一族でしょうか?
秋田を米どころにした佐竹氏。
佐竹様には窮地を救っていただきました。信州武士の一員として京に上りましたが鎌倉殿に追われかくまって下さったのが同流源氏の佐竹様です。以来16世紀の終わりまで当主は重の字を使わせて頂きました。当家の古い恩人であります
義仲公の家来ですか?
@@pontarou01 家来ではありません 賛同した中小領主でした。後の源氏越後五流(現在では忘れられた表現)の切れ端
常陸の片隅からですが
武田氏が常陸から甲斐に移住した経緯をご存知でしたらご教示頂けないでしょうか?
佐竹氏と共に武田郷に草刈り地を与えられて土着した様なのですが、常陸の歴史に名も残さずに何故、移住してしまったのか?経緯不明なのです。
【武田郷】が土地的に現在の水戸の川を挟んだ対岸であり、有力氏族の近くで住み難かったのかな?とも思っております。
甲斐〜信州に招き入れた氏族が有ったと言う事なのでしょうか?
@@KAJIYA--mondo39 当家の場合ですが鎌倉に詫びを入れ信州の旧領を安堵され戻れた次第です。あいにく武田様には詳しくないので何とも申せませんが頼朝公の牛若丸征伐、幕府開府と時期的に一致するならおなじような流れかもしれません。信州甲州は生産性の乏しい土地で逆賊を流す意味が有ったのかも
@@cma46210 さま
佐竹氏も同じ様な状況でした。
鎌倉挙兵時、常陸国には藤原系、平良房系の氏族が根を張っており姻戚関係を結びながら保って居る状態の中で平家勢力の中央を突破して鎌倉へ参じる事はできませんでした。
富士川の戦い後の佐竹攻めで敗れて北茨城の山に潜んで暮らし、のちに奥州藤原征伐途上の宇都宮で参陣し赦されて、白旗に扇の印を賜った。
以来、月扇?(日扇?)が佐竹氏の印と成りました。
地方の豪族にとっては平家の勢力が浸透してきてすぐに崩れるとは思えなかったのでしょう。
武田氏は源義家の弟、源義光の頃に兄弟?(従兄弟?)が争って所払いに成って常陸を去った様です。
木曽義仲公の先祖を頼ったのかも知れませんね?
佐竹家、独眼竜の漫画にも出たしドラマにも出てたな。
最近の戦国物ではなかなか出番がないのが寂しいですね。
最近の戦国物ではなかなか出番がないのが寂しいですね。
母方の先祖が、茨城に残った佐竹氏の家臣、仁平家です。
仁平家は秋田に従った家系、水戸に残った家系に分裂したようですね。
月居城の関係者でしょうか?
にひら、にだいら、二瓶まで色々な方がいらっしゃいね。
度々失言してますけど御人柄は良いそうですよ〜佐竹知事さんは
失言は多いけどしっかり筋を通す方ですよね。
どっかの 格闘家 も 佐竹一族
常陸太田に佐竹寺、佐竹高校があります。
佐竹さんと井伊さんは有名やね、徳川さんは落選したけど
新政府側に付いたのが本当に惜しい。
戦国時代に上杉から養子をむかえたため、戦国以降の佐竹は新羅三郎源義光の血は引いていない。
そうですね。昔は家を遺す為に、別人が家名だけを継ぐ事は良くあった話、血筋は途絶えています。
佐竹義人のことなら妻を佐竹嫡流から貰ってるから、女系で義光の血統は継いでるんじゃ?
佐竹義暁は相馬から入った婿養子。
その妻は佐竹の出だが
2人に子供がなかったため、新羅三郎義光の血は
佐竹においては完全に絶えている。
@@吉-w8g
当時の相馬氏は数代前に佐竹氏からの養子を迎えていたから、側室から生まれた跡継ぎも父方から義光の血を引いていて
昭和に迎えた養子も佐竹義重の女系子孫になるから
今の佐竹宗家は義光の血筋と言えると思う
元々の佐竹氏の血は途絶えているのですね。昔は家を継ぐとか、別人が遺す意味で家名だけを継いでいました。
佐竹大好きで、信長の野望はいつも佐竹。
戦闘では、義昭、義重、義宣の当主三代、一族の義久、内政では岡本一族、和田、人材揃ってるよな。
ただ、北条と伊達が育つと、
なかなかスリルある展開になりがちだ
何故、秋田藩ではなく、久保田藩なのでしょうか?いやうちの親戚で久保田さんという家があるので、何か関係があるのかなぁと思ったからです。
秋田は一帯の地名として古来からあり、久保田は城のあった周辺の地名だったようです。
明治維新のときに、秋田藩という地名の方がふさわしいとして改称し、現在の秋田県につながっているようですね。
@@rekishock 様、返信有難うございました🙇
いつも大変わかりやすくて興味をそそられる歴史の話題を提供して頂いて本当に有難うございます🙇
以前、龍角散のど飴のコマーシャルが流れて、秋田県知事さんが出られて、佐竹さんという方でしたから、ひょっとしたら秋田藩佐竹氏の血筋の方かなぁと思っておりましたが、やはりそうでしたね。
秋田城というのは蝦夷征伐のため平安時代からあってそれと区別するためかもね。
あと佐竹が出羽に転封する前は秋田市土崎港に城があって秋田(安東)氏が支配してた。
久保田は佐竹の作った城のある場所名です。
会津藩主の子孫が福島県知事になっったときは「会津藩主の成れの果てが県知事になった。」って揶揄してる人が居ました。
12:04 「人取橋の合戦」以来、伊達家と佐竹家は和解した形跡がない。奥羽越列藩同盟の幹事藩(仙台藩、米沢藩、庄内藩など)は傲慢で、新発田藩などはそれを嫌って、のちに新政府軍に参加しました。矢島藩、津軽藩も寝返ったと言う。新政府は横暴というのは言いがかりです。
秋田のゲホどもは佐竹公に絶対忠誠。
自衛隊の秋田出身同期たち、何よりも佐竹公大事、命も厭わない。
薩摩に似ていますねー。
これは未来永劫続きます。
初代義宣は、太田城33館城主謀殺事件正室血に染まった太田城に置き去りの非業、本人は異常なほどの用心深さで藩の重鎮でも素顔を見たものはあまりいないとされている。江戸屋敷には門松代わりに屈強の武士を門前に並べ佐竹の人飾りと川柳にも読まれている。佐竹で評価できるのは二代目義隆でその正室光聚院は良妻賢母として有名・あとは佐竹義和位で、とても誇るべき藩主では無かった。百姓への取り立ても厳しく「苛斂誅求」と他県藩から称された。「三百藩主人名事典」「江戸10万日全記録」にも佐竹藩百姓の苦境が記載されている。美化するのは誤り!
江戸時代の年貢取り立ての件は大半の藩にも当てはまりますけどね。
津軽家も新政府側なんだけど!?
おらほのとのさまだな。3分の2も燃えたとは知らなかった。
奥羽越列藩同盟の離脱は時勢を理解していた故の判断ではなく特に庄内藩‐南部藩との過去の度重なる確執により当初から「気分的」に嫌だったのだろう。
政治力も武力も脆弱な藩が官軍を気取った顛末は動画の通り情けないものであり藩主以外は恩恵に預かる事はなかった❗
動画にある通り、勤王派が藩内にものすごく多かったのにも関わらず、東北諸藩を説得しようとする奥羽鎮撫隊の全部隊が偶然秋田藩に集まるものだから、仕方ないかと。しかも、何事にも荒っぽい大山綱良が若手を中心に煽った。戦闘の緒戦は大山綱良や桂太郎が活躍して勝ったのだけど、その後が撤退しまくり。
東北は稲作に向いておらず、
頻繁に餓死者を出していた貧しい地域。
秋田は一揆が頻発した。
ちなみに秋田の語源は「悪田」 (´・ω・`)
佐竹家が名門なのはわかりました。長年にわたり秋田を治めていたこと勉強になりました。ただ、現代においても佐竹家が行政の長になっているということに、少し違和感を感じました。佐竹さんが優秀で素晴らしい人なのか? ほかに優秀で素晴らしい人物がいないのか? それとも他に理由があるのか? 佐竹支配からの離脱とか、脱佐竹のムーブメントっていうのも無いんですかね。ちょっと不思議に感じました。
まあ、過去には彦根市の市長として井伊家の人が何十年も市長やってたりするし、わりと『おらが殿様』の精神はまだ残ってるってことさ。
それが良いか悪いかは定かではない(評価なんて時代によって異なる。今我々の価値観を絶対視して過去を断罪するのはアホらしいのと同じ)
北家は(きたけ)と読みます。
まあ佐竹はほぼ相馬だから
鷹司の娘を娶ったって本当なの?誰を娶ったんだろ
山内上杉氏から養子にはって居るので源氏でなくなって居ますね。
12代当主佐竹義人はたしかに山内上杉氏からの養子ですが、先代当主佐竹義盛の娘、源姫を妻としており、源姫との間に跡継ぎの佐竹義俊をもうけているので、女系ではありますが初代以降の源氏の血筋はつながっています。
男系じゃないと源氏のy染色体を受け継いでいないのでちがいますね。
日本の「家制度」は別姓の他家から養子を迎えたからといってその家の姓が変わるようなことはありませんよ。これは別の動画のコメントでも言ったことですが、『歴名土代』は戦国時代後期の佐竹義重について「源義重」と記し、またこの義重の姉か妹に当たる岩城親隆室は自らを「源氏女」と奥州飯野八幡宛の禁制に記しています。つまり佐竹氏は対外的にも内々でも自らを「源氏」として認識していたということになります。もちろん織田氏や徳川氏などのように事情によっては氏姓を変えることはありますが、佐竹氏はそのようなことはしていません。
天皇は男系の血筋ですが、天皇の家来の源氏、平氏、藤原氏は家としの存続なので別に男系でないとダメというきまりはないです。
東照宮の燈籠の奉納名に
藤原朝臣政宗と有って??
伊達政宗が?……奥州藤原氏と関係は有ったような??
と思いました。
源氏姓もそう云う使われ方も有ります。
イージス・アショアを蹴った知事は好かん!
御先祖は佐竹の家来だったそうだけど。
秋田は未だ江戸時代が続いているのか。ヤダヤダ、恐ろし。
佐竹知事は分家な
佐竹一族が現代でも知事をしているのは知っているが、そういう県だからダメなんだよね。別に佐竹氏が悪いわけではなく、県民性が悪い。絶対、秋田には住まない。
知事は柔軟な思考ができる人だけど、県民が排他的です。(地元民
うん。ここの出身だ。佐竹知事は、酷いことを言われたよ。「肉が固い(比内地鶏)」聞いた時傷付いた。そいういうなら柔らかい地鶏開発して欲しい。
もし佐竹知事のご先祖さま義宣に大河ドラマ出たら観光アップして欲しい
じゃこ天美味いよ
石岡の 出城が近くに荒れた 城跡が有りますが 佐竹に潰されて のちに家康の
水戸藩に組み入れられ 水戸様の 領地に成り 黄門様の俵に 腰を掛けて ばあさんに
怒られた 話しは 子供時代に 気生かされてますよ。